1964年生まれ。
後々、書き足すかもしれないが
非常に複雑な家庭環境で育つ。
これも後々、書き足すかもしれないが、
両親共に沖縄育ちだったので
パスポートを使って一家四人
自分が学齢期になる前に「本土」に渡ってきた。
最初に住みついたのは相模原市。
相模原市在住児童の頃の小田急車内
以降、自分個人としては
「引越し」回数、軽く20回を超える。
ある意味「放浪人生」の根なし草である。
なので方言もしゃべれない、
幼馴染ひとりもいない
という沖縄に関してはほぼ思い入れはない。
現在は多摩市で妻子と三人暮らし。
町田市立忠生中学校卒
都立町田高校卒
立教大学文学部史学科卒
忠生中学校入学と同時に
吹奏楽部でユーフォニアムを
始め、ほどなくギターやピアノ
もたしなむようになる。
中三ユーフォ時代、都で銀だった。
というのには若干誤りがあり、
中学入学と同時にまず野球部の門を叩いたのだ。
小6の頃には地元の少年野球リーグに、
「児童自らチーム設立」して無理やり加入
するくらいに野球に燃えていたのだ。
野球に燃える児童の頃。ってバント!?
団地のブロック毎ソフト大会での打席。二飛か二ゴロだった。
いまとちがって少子高齢化でもなく
少年の野球熱は衰えるどころか
バリバリ全開の時代だった。
そこへもってきて
「一学年8クラス」のマンモス校だから
野球部希望者多すぎる
ってことで
ふるいにかけるためだと推測するが
練習初日から3日間、
ずーっと「中腰」の姿勢で
ただひたすら先輩たちが練習するのを
凝視しつつ「さーこい」を連呼しつづけさせられた。
で3日で辞めた。
吹奏楽は自身も経験者である親にすすめられて
なんとなく部室の戸を叩いたって感じで、
「楽器何にする?」
と聞かれて
「なんでもいいです」
と返したら
「じゃこれ」
とあてがわれたのが
見たことも聞いたこともない
ユーフォだったのだ。
音楽に関してはその時まで
ほぼ「聴く」専門であって
まさか楽器やる部活に入るとは
想像もしてなかった。
東海大相模に入って
プロ野球に行くことしか考えてなかったから、
けっこう「放心状態」だったような気がする。
楽器やってなかったとはいえ、
「児童」の頃は異様なまでに
クラシックを聴いていて
夏休みの宿題日記を提出したら
担任の教師に
「あなたこんなの聴いてるの?」
と驚かれたくらいである。
小6の時点で
クレンペラーは糞!
モーツアルトはグシュルバウアーに限る!
とか言ってたので
その点だけはかなり小生意気なガキだった。
楽器はやってなかったが
唄うのは好きで
最初に十八番にしたのは
「長崎は今日も雨だった」である。
児童の頃はクラシック以外に関しては
歌謡曲と軽めの洋楽、カーペンターズとか
サイモン&ガーファンクルくらいで
守備範囲は狭かった。
これは単に親の耳の許容範囲と一致させられてた
ということだろう。
で、なんとなく
仕方なく入部した
吹奏楽部の「悪友」たちに
ロックやジャズを教えられ
ってゆう
よくあるパターンで
オールジャンルなんでも聴くし
しまいにはやる
という日々を送るようになり
FM雑誌を購入して「エアチェック」し、
カセットテープがどんどん増える!
みたいなありがちな当時の音楽少年。
という流れから、
中二の時に初めての
オリジナル曲を作る。
高校も吹奏楽部。
大学はビックバンド。
大学でユーフォから
トロンボーンに転向。
中高大通じて
部活と並行して
ギターやピアノで
いろいろなジャンルの
「コピーバンド」やり倒し。
高校の時は「合唱部」の
トラとしても駆り出される。
パートは「バス」。
辻タダオ高校3年というか高校卒アルの画像
ビックバンドの時は
コンボも組んで
フリージャズやロフトジャズや
フェイクジャズなんかにも親しむ。
ということで
グレゴリオ聖歌から武満徹まで
デキシーランドからテクノまで
端唄、小唄からベイビーメタルまで
なんでも聴いてきたので
特にこの人って感じで
「崇拝」するミュージシャンってのは
いないんだけど
あえて挙げるのであれば
井上陽水、中森明菜、ギルエヴァンス
である。
で、この手のオヤジによくあることだが
わたしも
徹底的に
アンチJPOPっすw
ちょっと最近になればなるほど
意味がわからないっすw
さて
大学卒業就職後しばらく
音楽活動から遠ざかるが
1992年頃から
「
辻タダオ」ピアノ弾き語り
ソロ活動を江古田マーキーでスタート。
その後「辻タダオ&ALL13」という
バンドも短期間やりつつ、
途中、職務の都合による休止もありつつ、
時々、他のいろいろなバンドのお手伝い
もやりつつ、細長く「辻タダオ」ソロ継続。
「職務」経歴は
おおざっぱに
「パチンコホール」業界20年、
その後は零細農家を
ブルーベリー中心に営む、
みたいな流れ。
でこの「パチンコホール20年」ってのが
実は微妙に音楽活動に絡んでいて、
そもそも江古田マーキーで活動始めたのも
「音楽熱」が燃え上がったからではなく、
ミイラ取りがミイラになってどうする!
って感じで
「仕事もパチンコ、出勤前も退勤後もパチンコ
しまいには勤務中の食事休憩時間もパチンコ」
ってゆうまさに「パチンコ猿」状態になってて
それが証拠に「ダウンタウン」初期の頃って
全く知らない。なにしろパチンコ以外何もしないからw
さすがにこれはヤバいと思って、
「パチンコ以外の時間」を作ろう
と始めたのがライブなのだった。
なので妙に力の抜けた芸風になったのかもしれないw
ピアノはコードブック派の我流。
「クラシック」
「小粋なカクテルピアノ風」
は弾けないタイプ。
中学入学と同時に家にアップライトピアノが
導入され、まずは妹が女子のたしなみとして
ピアノ教室に通う。
で、ついでにおまえも行けと言われ
渋々通った。バイエルの巻末のエリーゼのために
までやって辞めた。
全くやる気なかったし、
野球の方がまだ好きだし、
みたいな。
ただその時の先生に
あなたはクラシック嫌なら
ポップスやればいいじゃない
って言われたのは明白に覚えてるので
ある意味「恩人」だ。
で、バッタもののガットギターは既に入手して
コード数の少ない「しおさいの詩」かなんかを
手始めに「ギター弾き語り」はたしなみ始めてたので
ギターのコードをピアノに置き換えるとこうだな、
みたく手さぐりでピアノで「遊び」始めたのだった。
で「歌本」買ってきて
なんでもかんでもピアノでやってみる
みたいなね。
そんな流れで
現在の辻タダオの「ピアノスタイル」に
決定的に影響を与えたのは
「タモリのキースジャレットの真似」
と
「山下達郎のライドオンタイム」
かなあ。
両方とも
「なんじゃこりゃ!?」
って衝撃を受けた。
あとは山下洋輔の一連の著作かな。
2012年以降、意識的に江古田マーキー以外の
様々なお店に出るようにし始めて、
銀座TRILL 髭ない頃
いろいろなバンド、セッションに参加した一環で
2016年4月に女性シンガーソングライター
おぐまゆきとユニット結成。
同年7月に
「中前適時打」として
高円寺無力無善寺でライブ活動開始。
当初は首都圏のみだったが
全国各所を回る予定。
音楽とは別途、
作・辻タダオ
絵・おぐまゆき
で「中前四コマ劇場1」という
漫画本も自主制作して販売中。
ほぼ野球ネタ中心。
おぐま、辻、共に
野球狂で
各々「横浜」「楽天」ファン。
2017年4月現在
中前適時打8割
辻タダオソロ1割
と
ビッグバンド時代からの
盟友、サックスdellaとの
辻タダオ&della1割
くらいなペースで活動中。
|
2017年1月20日at新宿ストレングス |